日本点字事情
かわら版

横浜市立盲学校
点字研究部

文責 道村静江
1998年6月17日発行 NO.2

 今回は,「点字の研究組織」がどのような経緯で行われてきたのかを,まとめてみたいと思います。

 5.戦前までの研究組織
 (1)帝国盲教育会点字出版部
 大正9年の発足とともに点字出版部を設け,点字表記の体系的研究に着手して,同11年2月にそれを発表。点字規則としては最初の公のものであった。かなづかいや分かち書きについて詳細な規定がなされ,特に分かち書きについては現在も踏襲されている部分が少なくない。
 また,数学記号にも着手しているが,英国で行われているテーラーシステムを採用するか,我が国独自のものを作るべきか意見が分かれ,しばらくはこの両方が用いられていた。

 (2)東京盲学校点字研究会
 東京盲学校(現在の筑波大学付属盲学校の前身)では,早くから表音的かなづかいを採用することを決定していたが,昭和に入って,帝国盲教育会の案を参考にして十数項目の規則にまとめ,これを点字表記の基本とした。(東盲点字規則)
昭和10年に冊子にまとめ,広く配布された。この東盲点字規則は戦前における最も有力な規則で,点字出版関係者などもこれを表記のよりどころとしていた。
 また,このときに採用された数学記号は,テーラーシステムに基づくものであった。

 (3)近盲研点字委員会
 昭和14年に奈良で近畿盲教育研究会(近盲研)総会が開催された際に,教科書等に使う点字表記の再検討が必要という声が挙がり,「点字研究委員会」が組織されて研究に着手した。しかし,戦争が激しくなり,活動は一時中断された。戦後になり,近盲研は再び活動を開始し,昭和26年に「点字の書き方について」という報告書をまとめた。これによって,従来経験的立場で進められていたものが,合理的・体系的な方向へ向かうこととなった。

 6.戦後の点字研究組織
 (1)日本点字研究会(日点研)
 昭和23年に施行された盲教育の義務制から,検定教科書の時代に入り,文部省は盲学校用教科書の編集を開始した。こうして次々と編集された教科書はいくつかの点字出版所から発行されたが,各出版所によって点字の分かち書きや符号の使い方に微妙な差があり,教科書にもそれが反映されることとなった。
 このころになると,盲教育界の研究会などが盛んに行われるようになり,教科書の点字表記に関する不統一が問題として取り上げられるようになった。
 一方,数学や理科の記号についても問題があった。数学記号は英国方式を取り入れることによって初等数学に関しては充足することができたが,化学記号が不備で化学の教科書を編集するに当たってその記号を整備する必要があった。関東地区では盲学校理科教員の会で研究を進め,一応の成案を得ていた。しかし,これを教科書に採用するには全国的なコンセンサスを得る必要があった。
 このように,一般表記の統一を図るにしても,理科記号を決定するにしても,どうしても全国的な組織が必要となり,昭和30年の全国盲学校教育研究会・下関大会において,「日本点字研究会(日点研)」が発足した。
 日点研には全国の盲学校が加盟し,京都府立盲学校に事務局を置いて活動し,約10年間の間に『点字文法(点字国語表記法)』,『点字数学記号』,『点字理化学記号』,『点字邦楽記号』などを精力的に出版した。

 (2)いよいよ注目の『日本点字委員会(日点委)』登場!
 日点研は教育界を中心とした組織であり,次第に増えてきた点字図書館や点字出版所などの点字関係者のすべてを網羅することができなかった。そこで,より包括的な機構が望まれ,昭和41年に,全日本盲教育研究会に点字部会が設けられたのを機会に,日点研は発展的に解消し,新たに盲教育界と盲人社会福祉会の両方から委員を出し合い,それに学識経験者を加えて「日本点字委員会(日点委)」が発足することとなった。
 日点委は日本の点字表記を決定する唯一の期間と位置づけられ,ここで決定した表記は教育界でも社会福祉会でもこれを採用するという紳士協定が結ばれたのである。ちなみに,初代会長は鳥居篤治郎氏,2代目会長は肥後基一氏,3代目会長は本間一夫氏である。
 こうして,日点委は日本の点字表記法の統一と体系化をめざして活動を続けることとなったのである。

 これ以後,日点委がどのような仕事をしてきたのかは,次回にまわします。
これで,日本の点字研究組織がどのように流れてきたのかの概要がつかめていただけたでしょうか。(参考文献:日本の点字100年の歩み)